70年代始めにアメリカン・プログレ・ハードの雄として登場、その後ポップ指向を強めたことで70年代後半から80年代にかけて世界的なヒットを連発、一躍その時代のアメリカン・ロックを代表する存在となった“スティクス”。そのフロント・マン、そしてメイン・ソングライターとして、バンド結成当時から中心的存在として活躍したのがデニス・デ・ヤングである。
デ・ヤングはバンド草創期には「レディ」(1972年)、「ローレライ」、「スイート・マダム・ブルー」(1975年)を、トミー・ショウ(ギター)加入後は彼と競い合うように「マドモアゼル」(1976年)、「大いなる幻影」、「永遠への航海」(1977年)、「ピーシズ・オブ・エイト」(1978年)、「ベイブ」(1979年)、「ザ・ベスト・オブ・タイムズ」(1980年)、「ミスター・ロボット」、「愛の火を燃やせ」(1983年)といった代表曲/シングル・ヒット曲を書き“スティクス”の名を不動のものとするのに大いに貢献している。
しかしデ・ヤングのコンセプト志向が頂点に達した一方でその評価に賛否両論もあった『ミスター・ロボット』を境に、デ・ヤングとショウとの間に不和が生じ、徐々にバンド活動は停滞していくこととなる。1990年にはショウを除くメンバーで活動再開しアルバム『エッジ・オブ・ザ・センチュリー』を発表、デ・ヤング作の「ショウ・ミー・ザ・ウェイ」がヒットして復活をアピールするものの、ほどなくして再びバンド活動は停止してしまう。
デ・ヤングとショウが和解し、再び黄金期のメンバーでの活動再開がアナウンスされたのは1996年のこと。しかしツアーを目前にしてオリジナル・メンバーのジョン・パノッツォが急逝、結局黄金期メンバーでの復活はかなわないものとなってしまった。しかしバンド活動はそのまま続行することとなり、96年ツアーを収めたライヴ・アルバム『リターン・トゥ・パラダイス』、そして99年にはスタジオ・アルバム『ブレイヴ・ニュー・ワールド』をリリースしている。
この頃から健康上の問題を抱えていたデ・ヤングは『ブレイヴ・ニュー・ワールド』リリース後のツアーに出ることのないままバンド脱退を余儀なくされている。2000年代以降のデ・ヤングはソロ活動に勤しんでおり、2004年にはスティクスのナンバーをオーケストラをバックに演奏したライヴ・アルバム『ザ・ミュージック・オブ・スティクス〜ライヴ・ウィズ・シンフォニー・オーケストラ』を、2007年には通算5作目となるソロ・アルバム『ワン・ハンドレッド・イヤーズ・フロム・ナウ』といった作品をリリースするかたわら、ソロ名義でバンドを率いて精力的にツアーを行っている。
2014年10月には、『ザ・ミュージック・オブ・スティクス〜ライヴ・ウィズ・シンフォニー・オーケストラ』に続くライヴ映像作品となる、『…アンド・ザ・ミュージック・オブ・スティクス〜ライヴ・イン・ロサンゼルス』をリリース。2014年3月18日ロサンゼルスにある由緒あるエル・レイ劇場にて収録された。バンドのみの演奏となるが、小規模ながら風情あるシアターというシチュエーションで収録され、デ・ヤングのヴォーカルも70〜80年代以上に表現力を増し、その健在ぶりを大いにアピールしている。